勉強の哲学 千葉雅也
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環境依存的に不自由だから行為することができる
真に自由であっては優先順位つけれない
すべての自分以外の存在を「他者」という定義で著者は表現しているが、「統一した個人」があるような感じを受ける。
「言語的にバラす」
アイロニストは「現実それ自体」を掴みたいので、環境依存的な偶然性がままならなく、必然的に唯一な現実を生きたい 私が偶然性の議論に興味がある理由がわかるなーとggkkiwat.icon 「言葉の記号的操作をする意識」を持って自分を「言語的にバラす」。これが彼のいう「勉強による自己破壊」である これぐらいの距離感をもつ
ここらへんの距離感的なところがわかっていないと思ったので、もう一度一章二章を読み直すggkkiwat.icon*3
「ノリが悪い」ということは自分で考えているということであると捉えると、さらにコミュニケーション搾取的なことへの憎悪が増すな なんか自己啓発が話題になってるのかしら。自己啓発とはどういうことかについてのメタ思考、メタメタ思考は『勉強の哲学』でだいたい完了じゃないのと思っているので、今更何が話題なんだろう。 なる…ほど…?
言語は、現実から切り離された可能性の世界を展開できるのです。その力を意識する。わざとらしく言語に関わる。要するに、言葉遊び的になる。このことを僕は、「言語偏重」になる、と言い表したい。自分のあり方が、言語それ自体の次元に偏っていて、言語が行為を上回っている人になるということです。それは言い換えれば、言葉遊び的な態度で言語に関わるという意識をつねにもつことなのです。深く勉強するとは、言語偏重の人になることである おれはこの状態に対してそのままではいられないという意識を持っていて、身体的な思考に興味があった。 勉強して知的になるときには、同時にキモい人になってしまう。だがその後でキモさを減量すればよい
アイロニーとユーモアの言語技術を自覚して、最終的には、そのギアを自由に入れたり入れなかったりできるようになる。場に応じて浮く/浮かないのスイッチング、複数のノリの行き来をできるようになること。それこそが、サブタイトルにある「来たるべきバカ」なのです。 何が本当に価値あるものかを追求するのはアイロニー的姿勢です。それはハイカルチャー的とも言い換えられるでしょう。一方で、一見価値がないと言われるものも、見方を変えれば別様に価値づけられる、と考えるのがユーモア的姿勢です。勉強を深めていくと、ともすれば、究極の根拠を求めてアイロニー追求型に陥ってしまいかねません。しかし、自身の享楽によってその深掘りにストップをかけ、アイロニーからユーモアへと折り返す。このターンが大切なんですね。僕はユーモア的な肯定性の意義を強調したい。自分にとって不要に見えるものをも、別の仕方で肯定できるようになること。それが教養教育の本質だと思っています。